2009年2月アーカイブ

心身相関予防医学 ガンに克つ  

                              高原喜八郎博士講演

                                      西新宿クリニック院長

                                      目黒区倫理法人会 相談役

 

毎日数千個の癌細胞が発生

高原喜八郎博士.jpg 3・40代の人は、毎日数千個の癌細胞が発生しています。それを5分以内に全部退治しています。 体の免疫力がグーンと落ちてしまうと退治出来なくなる。どういう時に免疫力が落ちるかというと、ストレスですね、心の状態が不安定。不幸なことが起こったり、マイナスに物を考える。不自然な生活をする。人間ですからしばしばそういう状態になる。癌になったという事は、こういう状態が長く続いたということです。

 

 癌を直すには、最終的には、自分の免疫力を高め癌に打勝つ状態にする以外に無いのです。先端治療では、本人の血液を採り免疫細胞を培養して五百倍くらいにして注入するANK法があります。NK(ナチュラルキラー)細胞が健全な時には、日に数千個の癌細胞が発生しても何でもありません。

 

『明朗・愛和・喜働』でガンにかからない

 

 この免疫細胞を活性化するには、倫理の実践が必要なんです。私は山梨の病院で、週一回倫理の話をしています。丸山敏雄先生の心身相関の心の方の問題です。

 丸山先生が亡くなられて五・六十年になりますが、NK細胞が発見されたのは25年程前です。NK細胞を活性化する脳内ホルモンがあります。βーエンドルフィン。このホルモンは、前向の生活をしている時に多く出る。

 喜び、生きがいがある、プラス言葉(出来る、嬉しい)を使う。このような状態の時βーエンドルフィンが沢山出てNK細胞を活性化する。

 毎日、『明朗・愛和・喜働』の生活をすると癌にならない生活が出来る訳です。この事は、いくつかの論文にも発表されて、はっきり分かっている事です。

 

超初期癌を発見する

 

 癌の始めの状態。癌のボヤの状態を捉えて退治する。早ければ早い程有効です。この初期の状態を捕らえる検査があります。ガンマーカーで兆候が現われると、CTスキャンとか、超音波で詳しく調べます。この時、画像情報で映らない初期の状態ですと一般の病院では、何の治療もせず少し様子を見ましょう、と云うことになります。この時点で免疫療法を施せば良いのですが、現在そういう医者はいない訳であります。

 

 1ミリの癌には1億個の癌細胞がありますが画像情報では捉えられない。レントゲンに写るようになるには、大きさと密度が必要です。1センチ或いは1グラム位のかたまりが必要です。十億個の癌細胞です。

 癌の兆候を捕らえるには、ガンマーカーでの追跡が必要となります。人によりマーカー値が違いますから定期的に検査をして正常値を知っておく必要があります。

 

 

 倫理で活躍されている講師の先生の中には、癌にかかっても元気に活躍されている方がいる。『明朗・愛和・喜働』の実践やってますから。胃癌があって十年間治療もせずに活躍している方もいらっしゃる。大阪に林専任派遣講師がいらっしゃる。その奥様の林初恵指導員、すごい乳ガンをかかえているんです。大阪府立センターで命の保障ありませんと宣告された。しかし、ある時仏壇でお祈りしている主人の言葉を聞いた訳です。

 

 「私の命を半分にして、妻に与えて下さい。共に生き共に死にとうございます」 電撃のような衝撃を受けた初恵さんは、初心に戻って倫理の実践をはじめられた。この事は、研究所からビデオにもなって発表されています。 ガンマーカー値3桁で画像情報で捉えられない初期膵臓ガンを自力で克服した方もいます。

 

 

癌の治療法

 

 私の妻は、ずーとガンマーカー値を検査していた。十年以上いつも正常値で何の変化も無い。つい気が緩み一年程チエックしなかった。六年程前、検査したら普段15位の数値が250なんです。違う人の値かと思う位の数値が出た。初期卵巣ガンです。卵巣ガンは症状が無い。メロン大の大きさになってようやく何か気付く程度。その時は、もう手後れなんですね。

 

 当時私は免疫療法を夢中で研究していました。3ヶ月6種の療法を試みました。少しもマーカー値が下がらない。下がるどころか400以上になった。3ヶ月してようやく値が下がった。免疫療法は時間がかかるんですね。しかし、又上がったのです。そこで、決心して手術をしました。赤ちゃんの拳大のガンになっていました。中を割ってみると真っ白で立派なものでした。手術後、マーク値が15.11とポーンと下がって以後現在まで変化がありません。一応。世間で云う5年を過ぎた。卵巣ガンは完治した、という状態になりました。

 

 しかし、一生胡座をかいていていい訳ではありません。別のガンが発生する事もあります。

 

 

 日本は、癌の治療に代替医療を認めていません。患者の自然治癒力を引き出し強化してガンを撃滅する方法。しかし、最近ガンの発生率が下がっているのは、民間の代替医療の普及にあるのかも知れません。

 

 

癌は最大の生活習慣病

 

 ガンの本質は、最大の生活習慣病であるとの認識に徹する事です。従って、その対策は以下の実践にあります。

1、明朗、愛和、喜働、純情(スナオ)の心で生活する。

2、食生活はマゴワヤサシイ

  (マ・まめ、ゴ・ごま、ワ・わかめ、ヤ・野菜、サ・さかな、シ・しいたけ、イ・いも)

3、癌の超早期発見

  (ガンマーカー値を把握追跡)

4、大自然のルールに従って、わがままを取り、感謝の生活をする。

5、ぼけない予防法に関心をもって実践する。

『おやじに完敗』    三郷市倫理法人会 見付春雄

見付春雄.jpg 

 3月9日に息子の結婚式を行なうことになりました。父は百姓リーゼント、私に良く似たいい男で青森で農業をやっておりました。

 長男の私ですが、お前は村に帰ってくるな、いると村に迷惑がかかる、と言われつづけておりました。

 

 身体の具合が悪くなった時、毎日見舞いにかけつけました。しかし、いつも、何しに来たんだ、おれは悪くないよそんな新幹線に払う金があったらお袋にこずかいでも置いてけ。来なくていいよ。と捨て台詞。

 

 明日は、息子の結婚式の打合わせがあるから来れないよとお袋に話していると、何しに来るんだ、おれは元気になるんだ、もう来るな!とどなっていました。 只の一回もほめてもらったことが無く。お前のやってる事などたかが知れていると言っていた父は、その、打合わせの日に亡くなりました。

 

 結婚式の打合わせに向う途中容体が変った知らせが入り急きょ青森に向いました。やっとの思いで新幹線に飛び乗りました。嫁さんも一緒の全家族。楽しそうな会話の中に亡くなった知らせが入りました。皆に言うことができず。寝た振りをしてじっとしていました。家内が、だめだったのねと察していました。

 

 家には、父より早くつきました。白い布を被せられた父が帰ってきました。どうして死んだんだ、怒りともいえる気持ちで、バッと布を取ると、そこには、満面に笑みをたたえた、今迄見たことも無いおだやかな父がいました。妻が作った浴衣をびしっと着て、どうだ、まいったかと言っているようでした。

 

 この時、完敗だと思いました。

 

 母がカレンダーの裏に書き付けた葬式の手順を出してきました。父が二年前書いたものでした。

 

 あのバカは東京へ行って帰って来ない。何も知らない。しょうがないとブツブツいいながら書いたという事です。

 

 喪主は、私になっていました。手順、席順がきちんと、全部書かれていました。私は、その通りに葬儀を出し、親戚も納得していました。

 

 息子の結婚式をどうするか、しばらく延期するべきか迷いました。招待状を出し返事も来ていました。親戚の人は、この不幸の中、日も浅いのに延期すべきだと皆言っていました。

 

 和尚さんに相談すると、喜んでいた父が亡くなって結婚式もやめた。死んで何もなくなった、もっともっとつらいだろう、お前じゃないよ、おやじがつらいんだよ。死にたくて死んだんじゃ無い、それを結婚式までやめたら…。

 

 親戚中和尚さんに説いてもらって結婚式をやることしました。

 

 結婚式の前の日大型バス二台で東京へ向うことになっていました。当日の朝、電話がはいりました。結婚式出来ないよ、行けないよ。一晩に1メートル20センチも雪が降ったのです。親父ここまでやるのか。

 

 高速道路は不通。四号線に出るまでの道をどうするか。村中の人、役場、隣村、ありとあらゆる手段をつかって道をあけてもらいました。翌朝7時に誰一人欠けることなく90名到着しました。、バスはボロボロ。アンテナも無し、マフラーも一本おれちゃってました。

『ハイは岩をも砕く           久喜市倫理法人会 本多一成  

 

本多一成 .jpg今まで自分勝手の流儀をズーと押しつけてきたんです。好きで結婚したんです。時々反乱はあったんですが、一緒に居てくれていました。

 「時間取って下さい。」

と丁寧に言われた時、アッ来たな。真剣な話をされそうだナ、と感じました。気配を感じていましたから、ずーと避けていたんです。

 

 「私はあなたに文句は無い。だけど一緒にいると分裂してしまう。息が詰まって苦しくてもうほんと生きられない。」子供は四人もいるんですが、生きられないと言われました。

 「分かった、ちょっと待って、ちゃんと時間とるから待って。」

 

私は、蓮実師匠に相談に行きました。

 「実はこうなんです。」

 「ああそうか、おまえおかあちゃんの言う通りにしてやれよ。何でもいう通りにしてやれよ。ハイだぞ」

 「あの、離婚なんですけど。」

 「ああ、離婚届け直ぐ書け」

 「それでいいんですか」

 「いいんだよ。おかあちゃんの言う事お前一回も聞いてないじゃないか、だから聞いてやるんだよ。すぐ書くんだぞ分かったな。」

 

 と何回も念を押されて、「ほんとに書くんかよ…」と思いました。

 最後に、「いいか、一成、女はいっぱいいるからなッ」

 ヤバイですよ一寸違うンじゃないかな…

 

 行動の指針は決まった訳です。

 

 「よし、覚悟決めて行こう。」その通り受けていこうと決心しました。

 そして、静かに考えてみたら、結婚してから一回も見てやって無い。居るだけで、全然受けてあげていない。十五年間一回も。ほんとに悪いな、悪いな…と思いました。最後に頼みました。言いました。

 「ほんとに悪い、悪かったな…。別れても構わないから一つだけやらせてくれ。

  足をもませてくれ。」

 一晩中足の裏からあちこちもませて頂きました。

 妻は一晩中泣いていました。

 

 これが、「ハイ」なのかどうか分かりません。

 受けてやる、ちゃんと見てやる。俺は何なんだ。俺は亭主だといいながら、実は亭主何もやってない。唯、一緒に居るだけじゃないか。

 結論からいうと、執行猶予中です。再出発出来ているかどうか。

 

 倫理の話や行事に、反発し文句ばかりいっていながら、何か頭の何処かに棘が刺さっていて、これでいいのか、ほんとうか。自分とは何なんだ、本当の事言えよ、倫理の営業マンじゃないぞ。欲しい、分りたい、といいながら理屈をこねて何もやらなかった自分。

 

棘を忘れたくて色々の事をやる。大酒も飲みました、大暴れもした。目的が別の事でガンガンやります。でも、棘がある。

 

 実は、自分では、分かっているんです。臆病者の自分を変えてくれる環境を欲しがっている。「オレをかえてくれ」小心者で欲張り、自分が傷つきたく無いから、捧げられない、冒険ぽい事はできるけれど、本当の冒険が出来ない。」

 

 そんな時に、師匠が出来た。豪快、飾らない、子供みたいで大激情家です。良く泣きます。底抜けに明朗ですね、会社がおかしくなっても明朗です。どんな事があっても明るい。自分に正直で謙虚。ただ梯子をかけて人を昇らせて、ガクッと梯子を外すんです。

 

蓮実スーパーパイザー。

おい一成ハイの実践だ。「ハイは岩をも砕く」んだぞ。

蓮実スーパーパイザーの口ぐせです。

 

 やってられねえ。といいながら、久喜の会長をやっていました。これは、もう巡り合わせで、自分の中にある、自分のいつも感じていない自分というものが居るんだなという事もぼつぼつ分ってきた。

 今は、まず、本気で一所懸命「ハイ」を実践していきます。

 

              北辰物流エンジニアリング株式会社 代表取締役

 

   『自 他 共 尊』        三郷市倫理法人会  佐藤裕之

 

佐藤裕之 .jpg 青年会議所を紹介され入会いたしました。今の自分がどの程度通用するか試してみたいという思いと、何が青年経営者の集まりだ、目に物を見せてやるという思い上がった自分がいました。二十代にして国政の中枢人物と交流があったからです。

 

トップ当選

 

 入会四年目の理事選挙でトップ当選しました。思い上がりもトップの状態でした。8名のメンバーですが次年度の方針計画を練りました。そこで四才年上の委員といきなり衝突しました。普段は宴の席にしか顔を出さないといういわく付きの人物で、私は、厚生させてやるという勢いで思い上がっていました。夜中の2時3時まで議論しましたが結局説得できずくやしい思いをしておりました。そうするうち、三度目の次年度委員会を召集しましたが誰も現れない。出席すると連絡はあったのですが誰も来ない。議題が山積して切迫していたので焦っていました。

 

突然の不信任

 

 一時間後ゾロゾロと全員揃った席で、総会で委員長不信任を上程する話をするから席を外せ、と部屋から締出されてしまいました。委員長の座はどうなるという思いは全く有りませんでした。この事態をいかにまとめていくのかどうしようという思いがありました。暫くして部屋に入れられた時、自然と体が動き土下座をし「初めての委員長で何も分かりません皆様のご指導を頂きながら心を入れ替えて一から勉強させて頂きますのでご指導願います」と頭を下げました。すると「心を入れ替える」と言ったな、ならば、これから言う条件全部飲め。一、委員会の後は酒の席を用意せよ。懇親をして楽しくなくてはいけない。二、次の日曜日ゴルフに行く。ゴルフ道具を見立ててやるから明日十万円をもって来い。 三、酒、タバコをやらないで人の上に立てると思っているのか。タバコなど吸えなくても、火をつけてくわえていれば格好がつくんだ、場の雰囲気が読めないのか。と条件を出されました。私は、結論も出しかねて、ただただ宜しくお願いします勉強させて下さいと頭を下げました。

 「佐藤がこれまで言って、自分のリスタートを祝ってくれと言っているから、佐藤のおごりで居酒屋に繰り出すぞ」と言う事になりそれからが大変でした。一気飲み、パンツ一つで町を走らされるというこの年でイジメかと思われる事態になり、事ある毎に明け方へべれけになって家に送られることになりました。

 

這いつくばって委員長

 

 結局会の度に付き添って家に送られる状態を続け、這いつくばりながら委員長を務めました。後輩の後押しや、応援してくれる人もあり辞めないでやっていました。

 

 そんな時、父が倫理の勉強で戴いてきた「ありがとう」の言葉が目に入りました。この言葉に出合ってから、自然と気が楽になり、一つクリアする度に、喜びが湧き、つぎはどんな無理難題なんだ、受けて立ってやろうじゃないかという余裕の気持ちも出てきました。四ヶ月ほどして委員会も何とかまわり出しました。

 

再度当選

 

 その年、精も魂も尽き果てたという状態で、もう休ませてほしいと傍観者の立場でいたところ、次年度の選挙も通ってしまいました。

 「コップ2杯でへべれけになって、青ざめて座を白けさせてしまう自分がこの役をやっていいのだろうか」と言いますと、「五万人の会員の中でこんなだらしない奴は見た事ない。しかし、お前程体を張ってやっている奴も見た事ない。たかが青年会議所、利害関係があるわけでなし皆分かっている」と言うのです。実は、選挙の取りまとめをその人がやってくれていたのです。    


  ありがとう  清水英雄

つらいことがおこると感謝するんです

 これでまた強くなれると

  ありがとう

悲しいことがおこると感謝するんです

 これで人の悲しみがよくわかると

  ありがとう

ピンチになると感謝するんです

 これでもっと逞しくなれると

  ありがとう

つらいことも悲しいこともピンチも

のりこえて生きることが人生だと

言いきかせるのです自分自身に

そうするとふっと楽になって楽しくなって

人生がとても光り輝いてくるんです

ピンチはチャンスだ人生はドラマだ

人生がとてもすてきにすばらしく

よりいっそう光り輝きだすんです

ますます光り輝く人生を

ありがとうの心とともに


 

                サトウ発条専務取締役 結婚相談室 万喜 代表

 

 『 本 を 忘 れ ず 』

                                                      東松山市倫理法人会 深沢章男

 

 

深沢 章男.jpg

 松本医院 

 二才半頃だそうですが、私は脱腸になってしまいました。従弟が同じ脱腸で敢え無く亡くなっておりましたので、大変な病になってしまった。東松山のいい医者に見せれば助かるかもしれない…。

 しかし払うお金をどうしよう…と泣く私を抱いて途方に暮れてしまいました。

 

 そんな母を見かけた、畳やのおばさんが母を呼び止めて「兼ちゃん何しているの」と話しかけてきました。事情を話すと、「何を心配しているの、私が百円貸してあげるから早く医者に行きなさい…」

 

 そのお金を持って朝から東松山へ行ったのです。しかし、もう手後れだとか、なんとか言ってどの医者も診てくれません。当時歩きで病院廻りですから、もう大変。夕方日が暮れるまで病院捜しをして、もう子供が死んでしまう、と気が狂わんばかりに必死にお願いしてまわったそうです。

 

 日も暮れてしまい、もう帰ろうと諦めて駅の近くに来ると、「松本医院」という産婦人科の病院が目にはいりました。わらにもすがる思いでドアをたたきました。「こんな遅い時間に何だよ」と言う先生に、涙ながらに事情を話すと、「まあ、上がってみろ」と診察して、「何だこんな事か」ともみ込んで治してくれたのです。

 

 母は、「社会に出たら、「松本医院」を訪ねて必ずお礼をするんですよ。命の恩人ですよ」と私に言い聞かせました。「松本医院」の先生は一円の治療代も取らなかったのです。

 高校を出て、自衛隊に入リ何回か訪ねてみたのですが、どうしたのでしょうか、駅の近くの「松本医院」がどうしても見つかりません。もう少し早く訪れるべきだったと悔やまれてな

りません。

 

 

 自 衛 隊

 

 高等学校では、勉強しませんでしたので、もっと勉強しようと父に頼んで時間をもらい、自衛隊に入りました。入ってみると、エリートの集まる信務部、暗号などを扱う通信部隊。そこで人間の能力が人によっていかに違うか見せつけられました。

 同じように学んでも、理解力などこんなに違うのかと先に昇格する同僚を隣で見て懸命に勉強しました。

 

 この部隊でも、戦いの訓練を受けるのです。あるとき、手榴弾の実戦訓練がありました。こちらの壕から安全ピンを抜いた手榴弾を1、2、3で壕の向うに投げるのですが、一つが壕のこちら側の土手に落ちてコロコロと自分達のいる壕に落ちてきてしまいました。とっさに上官が体ごとその手榴弾の上に覆いかぶさり、爆死してしまいました。お陰で自分達隊員は助かったのですが、戦争とはこういうことかと非常に恐ろしく惨いものだと知りました。

                                                        ( 深沢電気商会 代表取締役 )

 と出会って     大宮倫理法人会 伊藤洋子    

伊藤洋子.jpg 昭和57年4月、40歳で始めて倫理に出会いました。「あなたは親の徳をいっぱいもらって来たのですね。40歳までは親の徳があり、あとは自分で徳を積まないと、子供に徳が回りませんよ。丁度良い時に倫理に出会ったんですね。」と言われました。

 一般の朝の集い(毎日朝5時から6時迄)からの出発でした。3年間休まず通い続けて、もっともっと深く勉強したい、役が頂けたらと念じておりました。しかし、役は回ってきません。(する人がいないのに回って来ません。) 4年目に入り、あなたどうですか?と云われ、喜んで「ハイッ」と受けました。これが苦難の始まりです。

は自分を成長させるもの

 倫理では苦難は幸福の門と教えられます。それは苦難は自分を成長させるためのもので嫌わないで、しっかり受けとめ、指導を受け実践したら今よりもっともっと幸せになれると云う事です。苦難を味わうことにより謙虚でより感謝の出来る人間に変えて行くからです。

 役を受けてすぐ、家の裏の貸店鋪に車が飛び込むという事故がありました。

 真夜中に車が飛びこみウインドウー等メチャメチャに壊して逃げられてしまいました。8メートルもある広い道なのになぜ。次の日すぐ指導を受けました。

 「《夫婦の間に人が入っています。》」「余計なものが入っているから飛び込んで来るんです。」との答でした。“そんな馬鹿な”と思いましたが、ある時、夫のポケットから定期入れが落ち、女性の写真がポロッと出て来ました。又指導をうけました。

 「よかったですね、あなたの足りない所を補ってくれたんですよ…。」と言われました。

44歳で子供を授かる

 倫理の勉強の凄さを知り、自分の殻を破りメッセンジャーガールになりたいと決意して1ケ月5日以上多摩墓地参拝を誓いました。朝3時に家を出て5時からの朝の集いに間に合うように、一年間続けました。

 子供を授かる。この子はきっと私を本物の親になれる様にと天が与えてくれたご褒美と喜びました。しかし、夫は大反対、指導を受けました。

1.あなたは御主人に喜ばれる妻では無いのですね。喜んでもらえる妻なら何人産んでも反対はしませんよ。と云われたのです。今まで考えもしませんでした。思い当たることをどんどん指摘され、ショックでした。

義母も《その年齢で産んで障害をもった子が産まれたらどうするの? 》と云われ又すぐ指導をうけました。

 障害をもって産まれた子は、その家に必要な子なのです。神様のように大切に育てなさい。必要があれば、自立の出来る子になりますよ。必要がなければこの世から消えて行きます。」との指導でした。このぶぶんでは、

 心がとっても軽くなり安心な気持になりました。

 

1,455gで出産

無痛安産の書.jpg 『無痛安産の書』 丸山敏雄 著

私も、この無痛安産が体験出来たらと病院の先生に「無痛安産の書」を差し上げました所「解りました。」と受け取ってくれました。

 6ヶ月目で切迫流産で入院、仲々主人に合わせきれない結果です。1ケ月間入院の後、7ヶ月目で逆子になり、すべての生活がお腹の赤ちゃんにうつってしまうんだと知らされました。帝王切開で1,455gの男の子が生まれました。顔も見ないですぐに救急車で小児医療センターに運ばれ、着いたときは1,000gだったそうです。片手に乗る程の小さな赤ちゃん。

 

 

 生まれてくれてありがとう。

 私は翌日からトイレ掃除を行いました。傷口は痛みましたが、私の子供位の母親の出産で産院のトイレは汚れていました。私は、順調に回復し2週間で家に戻り、寝ることなく活動を始めました。私は、毎日倫理の普及、母乳をしぼり病院通いと子供が豊かに育ちますようにと精力的に活動しておりました。

 

 呼吸が止まった

 「呼吸が止まりました、すぐ病院に来てください」病院から連絡が入りました。すぐ指導をうけると、呼吸が止まったということは、夫婦の呼吸が行き来していない、ご主人とのやり取りが出来ていません。主人に合わせて下さい。お子さんが命がけで教えていますよ。

 私は合わせているつもりでしたが、朝から晩まで動きまわっていて主人の気持を汲んでいなかったんです。申し訳ありませんと心からお詫びして病院に向かいました。病院にかけつけた時には呼吸を回復していました。子供は皆さんの看護を受け3ヶ月半して3,800gで退院しました。

 

 熱湯のお風呂に落ちる

 子供が小学校3年生の時、熱湯のお風呂に落ちて全身火傷をおいました。お母さんと一緒におふろに入る、と裸になって檜の風呂の上で遊んでいたのです。蓋がずれて、沸き上がったお湯の中に落ちてしまいました。自力で風呂から上がって火がついたように泣き叫んで、もう全身が真っ赤でした。すぐに水で冷して、同時に、友達から頂いていた馬油のことを思い出し、全身に塗りました。駆けつけた救急車の隊員さんは、「熱いよー死んじゃうヨー」と泣叫ぶ子供に「大丈夫、死なないよッ!」と大きな声で喝を入れました。子供は大人しく静かになりました。救急車は、ちゃんと冷す用意がしてあったうえ、日赤の病院と交渉してそこに入れてくれました。丁度当直の先生が皮膚科の外科の先生で、症状は2度、雑菌が入ると皮膚が死んでしまう、と個室を用意し適切な処置をとってくださいました。

伊藤洋子2.jpg 私は、すぐ指導を受けました。「先生苦難が来たのです。」『そうかね。有頂天でやっていないかね。』「いいえ、喜んでやっています。」『そう、喜んでやっていれば解決は早いよ、何でも喜んでやりなさい。』この指導を受け、一ヶ月後に迫った倫理講演会へのお薦め等一所懸命やりました。3ヶ月かかりますといわれた入院が18日で退院となり3週目には学校に行けたのです。

 

 

どんな時でもこれが良い

 倫理の会に入会して30年、私達夫婦を本物の父親と母親になれるようにと次から次へと苦難を与えてくれました。指導を受け乗り越えた時、真の明るさに輝いて来ました。今は、どんな事があっても、これが良いと体験を通して、良い方向に転換し「日本を良くする経営道」“よいことは他人に勧めよう”の精神で普及して行きます。

 

 

 

 

消費者の声に気づく、お客様本位の手づくり豆腐  

                 

                      ()とうふ工房わたなべ 代表取締役 渡

 

わたなべ1.jpg 会計士を目指していた大学在学中に、母が病で倒れ余命三ヶ月と診断されました。仕事は父だけではとても手がまわりません、長男である私は、父から大学を中退して、家業を継ぐよう説得されました。同時に母から結婚をすすめられ、病院で母の看病をしてくれた看護婦さんとの結納が交わされたのは、母が亡くなる三日前でした。

 

 スーパーの安売り合戦から脱出

 スーパーマーケットの卸売りに販路を求め、当初売上げは拡大を続けましたが、次第に安売り合戦に引き込まれてしまいました。

 一丁100円の豆腐が二丁100円となり、安売りの目玉商品として、とうとう一丁10円。卸値は、バイヤーのいいなり、8円に決められてしまいました。製造業として完全に魂を抜かれた状態でした。原料は品質が落ち、この状態がずっと続くのかと暗たんとした気持ちになっていました。お客様から味が落ちたとか、本当の値段はいくらかと苦情も出てきます。その上、得意先のスーパー2店が相次いで倒産。1千万の貸し倒れが発生。ここで思い切ってスーパーとの取引から手を引くことにしました。

 

 真の消費者に気付く

 それまで、スーパー向けの設備投資が、消費者の声を反映していると思っていました。大量生産、大量消費、省力化、コストダウン。しかし、店に直に買いに来るお客様は、見かけが良くても大量生産の製品は買っていかないことに気がつきました。おいしいのはどれ ? と、にがりを使用した手づくりの豆腐や見た目は劣る油揚げを求めていきます。

 

 娘の作文が郵政大臣賞に

 そんな時、中学ニ年生になった娘が、郵便局の簡保作文コンクールで最高の郵政大臣賞に輝いたのです。作文は「豆腐作りは家族の生きがいです」と結ばれていました。

 会計士の道を断念した私の気持ちとは裏腹に、娘は、私たちの毎日の「豆腐作り」の姿を見て「家族の生きがい=聖職」と見ていてくれたのです。

 

 国産大豆で豆腐を

 ある日、お客様から、国産大豆で豆腐作ってくれませんか、と依頼がありました。安全で美味しい豆腐の依頼でした。遺伝子組み換え大豆の事もそのお客様から学びました。

 1回70丁、250円なら出来ます。と答えると、それでいいと一週間後、購買者リストを持って来ました。隣村の農家が米の減反で大豆を栽培する事を話すと、生産者の顔の見える大豆なら更に良いと言う事になりました。

 こうして1週間に1回、火曜日に地元の大豆を使って、お客様の豆腐作りが始まりました。それが、100、200、500丁と増え、火曜日以外にも、「火曜日のお豆腐を下さい」とお客様が来るようになりました。そして、とうとう家内の店売りの方が、私の配達より多く売れるようになりました。

 

 「お客さんの為にお金を使う」

わたなべ店舗.jpg 経営コンサルタントの先生から「お客さんの為にお金を使いなさい」とアドバイスを受け、POSレジスターを導入、釣銭間違いの心配を解消、35台分の駐車場を整備ました。

 「おからドーナツ」などの商品開発も進み土日には2千個も売れるようになりました。

 

 国産というより生産者の分かる地元の大豆、郷土都幾川の水を使い、手間を省かない、お客さま本位の豆腐作り。 

 来てくれるお客様は、本当に「豆腐が好きな人」、店頭で豆腐の話をすると、目を輝かせて聞いてくれます。そして、親戚にも、お隣にもと両手に一杯買ってくれます。

 スーパーとの取引を、来店専門の「お客様の豆腐屋」に転換して本当によかったと思います。美味しくて、安全な豆腐を作る事ができ、お客様が喜んでくれる。地元大豆の生産者も販路価格を心配せず安心して栽培して頂けます。

 

 現在、一日400人、休日には800人以上のお客様が来てくれます

 

平成16年 埼玉県知事賞受賞(埼玉農林業賞 地産地省の部)

平成17年 農林水産大臣賞受賞(優良食料品店全国コンクール)

平成18年 毎日農業記録賞優秀賞受賞(一般部門の部)

「 妻 の 一 言 」

                     (株)飯田製作所 代表取締役 飯田正之

 

  農家の長男として暢気に

 

飯田正之 001.jpg 1958年、農家の長男として生まれました。祖母から「勉強して大学にでも行かれると農家を継がなくなってしまう、勉強するな」と言われていました。私も勉強好きではなかったので陽気に暮らしていました。

 しかし農家の嫁不足を心配して嫁さんを貰うまでどこか勤めろ、という事で高校を卒業すると地元の製薬会社に勤めました。何年かして、薬剤師の資格を取って入社した後輩が私より高給で、私の給料では、農業の自分の家がやっていかれない、いずれ食いつぶしてしまうことに気が付きました。この会社では係長止まり…。そこで日頃からお世話になっている方に相談して板金の会社で修行し独立し家を継ぐ決心をしました。5年の予定でしたが7年してようやく独立しました。

 

 昼も夜も働いて

 

 独立した当時は、別の板金会社で8時から5時まで働き、そこから仕事を頂いて家の長屋で6時半から11時まで働きました。12時をすぎる時もあり、妻を上手に褒めては度々手伝ってもらいました。今、思えば子供がお腹にいた時も、また年子で大変な時でもよく手伝ってくれました。改めて感謝です。

 

 バブル崩壊・父の大怪我

 

 平成3年、3千万円借金してようやく工場を建て、ベンダーとコーナーシャ、セットプレスを購入しました。

 その月に得意先の仕事がゼロになってしまいました。バブル崩壊に直面したのです。借金だけが残り、夜も眠れません。とにかく一軒づつ会社訪問して歩きました。

 やっとの事で曲げの仕事を頂きましたが、板切り(シャーリング)からやってくれと頼まれました。2人でないと出来ないため、農業しかやったことのない父親が、見るに見かねて手伝ってくれました。

 その日の3時過ぎ、自動送り機に手袋がひっかかり父親の右中指第一関節から切断する事故が起きてしまいました。「すまない」と謝る私に、病院で「これで突き指しなくてすむわ…」と冗談言って気を使ってくれました。思い出すと涙が出ます。

 それから必死に仕事を探し働きました。1個300円の仕事を頂いた会社からは、年間板金外注先NO1に迄成長することが出来ました。

 

 取引先がまさかの倒産!

 

 ところが、会社を起こして14年目の事、借金をして多額の設備投資をした矢先、年間売上の半分以上占めていた会社が倒産をしてしまいました。

 いずれ連鎖倒産という噂。なんとかしなくてはと必死に駆け回った。倒産した社長を恨みました。やり場の無い怒りや不安を抱え、父の墓に向って「おやじどうすりゃいいんだ…」1千5百万の負債が仕事継続には、4千5百万必要な事も分かってくる。

 

 妻の一言「どうってことないよ」

 

飯田英美子.jpg そんなある日、あっけらかんとした口調で妻が一言いった。「子供が生きるか死ぬかに比べたら、こんなこと、どうってことないよ」…幼い息子が病で死にかけた日の事が蘇った。髪振り乱して必死で看病する妻の姿も、父親の長い看病も、ふたりで乗り切ったじゃないか…

 

 従業員の応援

 

 従業員も給料減らしも、会社無くさないでくれと言ってきました。

 「自分が変わらなくては…」、なけ無しのお金で、妻とふたり半年間、経営コンサルタントに指導を受けました。私がいかに仕事に甘かったか分かりました。また、倫理法人会の経営者モーニングセミナーに毎週通い勉強しました。 そして営業に出かけるときは京セラの稲盛さんのテープを何度も繰り返し聴きました。今でも稲盛式経営11ケ条が基本です。『1、目的を立てる 2、目標を明確に 3、強烈な願望を心に描く 4、誰にも負けない努力をする 5、売上を最大に経費を最小に 6、値決めは経営なり 7、本能…肉体を守る為のもの、生きていく人間に必要なもの 8、謙虚にしておごらず、さらに努力を 9、毎日反省する 10、悩み心配するな』とくに11条、起きてしまった事を心配するより働け、は本当に勇気付けられました。

 

 「ピンチはチャンス」

 

 食卓を囲みながら、子供達にもきちんと事情を告げた。「お父さんは大失敗してお金もらえなくなってしまった。でも逃げないで頑張るからな」日頃から「お父さんは偉いんだよ」と聞かされている子供に話すのは辛かった。

 「ピンチはチャンス」と書いた腕章をつけ仕事先にもそのまま出かけた。従業員みんなの頑張りが嬉しかった。励ましてくれる人、仕事の世話をしてくれる人…、その一つ一つがありがたかった。仕事も徐々に持ち直すことが出来た。人との繋がりこそが財産なんだ。男にとって仕事とは家族を養うものと思って、自分ひとりが頑張って働いてきたつもりだった。だが、私の方が支えられていたのだ。家族に、従業員に、出会った人々に、そして亡き父にも。

 

 

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