あの時の私 横田忠彦
闇と冷気に包まれ、砂利の上に正座する富士高原研修所。足の痛みに耐えながら講師の先生の声に聞き入り、瞑想する私の脳裏に浮かぶのは、若き日の父母の姿です。
敗 戦
昭和20年8月初めのある日、満州東北の国境の町、黒龍江省牡丹江に住んでいた、私たちの耳に大砲と機銃の音が響いてきました。
「逃げてくださーい。」「逃げてくださーい。」という伝令が表通りをかけめぐり、母は、3歳の弟を背負い、7歳の私の手を引いて、着のみ着のままで表へ駆出しました。他の家々から飛び出してきた人たちと共に、走っては歩き、走っては歩きながらようやく牡丹江の駅に到着しました。駅前にはすでに大勢の人々がおり、私たちの後ろからも次々に集まってまいりました。駅の構内には軍隊がおり、列車には兵隊が乗っておりました。駅の入口には兵士がずらりと横に並び、銃剣をこちらに向けて立っておりました。
私たちは取り残された
「お前たちは乗るな!」と、叫んでおります。まもなく列車は出発し、次々に入ってくる列車に軍隊が乗り、銃剣の兵隊も乗った客車が去りますともう乗る列車はないと知らされました。私たちは取り残されたのです。騒然とする中で、満鉄の駅員の人たちが構内を駆け巡りあちこちに残った石炭を積む貨車をかき集め、一列車を編成しました。
「乗れるだけ乗って下さい。これが最後です!」の声に皆列車に殺到しよじ登りました。私は小さくて昇れず、母も必至に私を押し上げようとしていました。その時、突然何か強い力で体をつかまれアッという間にラグビーボールのように空中に投げられ、ドスンと貨車の中に落ちました。
のちになって母は「誰かがお前を放り込んでくれたんだよ」と言っておりました。こうして運良く貨車に乗れて出発することができました私ですが、大勢の人は、乗れずに線路を歩いていくはめになったのです
。
父は行方不明になりましたので、母一人で私たち兄弟を連れハルピンを経て一路南へ向かい、奉天(今の瀋陽)に参りました。その途中、まったく偶然に父と再会し、父の知人の中国人の世話で、奉天市内の大きな家の屋根裏に隠れ住むことになりました。
感謝の日々
その後私は栄養失調で死に際までまいりましたが、両親に助けられ、翌年引揚船で舞鶴に帰ってまいりました。
両親のみならず私たちを列車に乗せて見送り、死んでしまったであろう満鉄の方々はじめ多くの人々のお陰で今生きていることを想うと、感謝の念を禁じえません。合掌。

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